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第7官界彷徨

第7官界彷徨

古今和歌集仮名序

 2007年9月より、古今和歌集を始めました。

古今和歌集は、
仮名序
やまとうた
真名序
という形からなっています。これは藤原定家の写本の形で、真名、仮名、やまとうた、の順のものもあり、また、仮名序とやまとうた、のみのスタイルもあります。

仮名序を書いたのは、紀貫之であると、栄華物語には書かれています。
このページでは、「和歌は人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」と、高らかに宣言する貫之の心意気あふれる仮名序を解説していきます。
1回目
 今日は古今和歌集の1回目でした。受講者は20人ほどで、丁度いい感じです。今日も先生は張り切って難しいことをいろいろ分析して教えてくださったのですが、初参加の人たちも「良かった」と言ってくれたのでほっとしているところです。

 まず、古今和歌集は勅撰和歌集なのですが、その「集」とは、中国の書物の分類の
「経」「史」「子」「集」の集なんだそうです。
「経」は道徳や倫理中心のもの。
「史」は歴史。
「子」は特別な部門で有名になった人の名前を伴ってその人の著作や考えなど。
そして「集」は文芸作品を中心に集めたもの。

 昔、魏の国の皇帝が書いた「典論」に、勅撰集の原理が書かれているそうです。それは
「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」と。
 中国では文学はそのまま政治の心につながっているそうです。
 詩経の序文に
「詩は志の之く所なり。心にあるを志と為し、言に発するを詩と為す」

 日本でも昔はそうだった。しかし日本では志を政治には使わなくなってきた。(高い理想や倫理が失われてきてしまった、ということかな?)

 続いて和歌の歴史
 日本のやまとうたは、万葉集の頃に大きく花開いたが、漢詩全盛の時代を迎え、沈滞してしまった、古今和歌集の序文には、恋愛にうつつをぬかすだけの和歌だけど、しかし、すてきな言葉達を集めて新しいやまとうたの時代を作ろうという明るい決意が書かれています。

 初めての勅撰和歌集、古今集は905年に作られ、それから1439年の新続古今和歌集まで、500年の間に21の勅撰和歌集がつくられました。
 その全てが1回目の古今和歌集を基本にしているところから、古今和歌集のすばらしさがわかるそうです。

 8番目に藤原定家が新古今和歌集を作ります。それから後撰集、拾遺集(源氏の時代)などの頃、ある傾向が出てきます。それは「難陳」といって、初めてその選び方内容んどについて意見を言う・・・すなわち、日本文学において初めて「評論」というものが姿をあらわしたのだそうです。

 名前についても、「金葉集」は、釈迦が入滅したときに金の葉が降ってきたというのに、不吉だ、とか、詞○集は詞が死につながるではないか・・とか。

 しかし、勅撰和歌集に自分の歌が載るかどうかは、命にも匹敵する重要問題だったそうで、源平合戦のさなか、平忠度?は都にとって返し、千載集選者のだれだか(有名人)に自分の歌が採用されるか聞きに行ったと平家物語には書かれているということです。
 平家は亡び、彼の歌は「詠み人知らず」として千載集に載せられたそうです。
(あとで平家物語読んでみますね)

 勅撰和歌集は21集で終わったのですが、それは武士の時代到来で、朝廷の力がなくなってしまったということです。

 そののちやまとうたに代わって「連歌」が起きました。連歌の形式はイメージの統一を大事にする欧米人には珍しがられ、今、国際的に広がっているそうです。
 

2回目
 今日は古今和歌集の2回目でした。家持が書き写した古今和歌集には[仮名序]があってまんなかに歌、あとに[真名序]がついています。真名序とは漢字で書かれたもの。後ろにありますがあとがきではありません。

 仮名序は
和歌の原理
和歌の歴史
和歌の様式
(漢詩の六義の6つの種類)
和歌のいろいろ
和歌の歴史
(万葉の頃、六歌仙の頃、編者の頃)
まとめの言葉
 で、できています。書いた人の名前はないのですが、「栄華物語」に、紀貫之が書いたと書いてあるそうです。

 仮名序の最初の1行で、1時間かかってしまいました。
「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」
 吉田健一が翻訳した「日本の文学」で、ドナルドキーンは万葉集は出さず、日本の文学の最初として、古今和歌集を出しているそうです。
 この書き出し「和歌(やまとうたは)、人の心を」を西洋の心ある詩人に読ませると、一様に驚くであろう」と書いているそうです。西欧では詩の最初の一行は神から与えられたもの、という意識が強く、実際ヴァレリーはそういう詩を書いているそうですが、古今和歌集はまず「人」が出てくる自信!!に驚くと。
 ドナルドキーンやサイデンステッカーは、戦争中、アメリカはやがて日本を占領する予定で学生たちに日本語を学ばせたのだそうです。この2人とも日本語を学び、硫黄島や沖縄で日本兵の遺書を解読する仕事をし、いろいろな筆跡を解読する能力とともに、日本通になったのだそうです。

 「万の言の葉」の葉は10あることの1つしか言い尽くせない端という意味。
 一般的には万、たくさんの、という意味だが、哲学者の吉田とおる氏は、「万の」の「の」は「万が」と言う意味ととって、「万物が言葉となる」という論を出したが、あまり受け入れられなかったそうです。

 さてここで万葉集の万葉の意味は、昔は「たくさんのやまとうた、ことのは」だったが、今は「後世まで伝わるすばらしい歌集」とされている、しかし、岩波の「新日本古典大系」ではもとにもどって「たくさんのやまとうた」になっているそうです。
 それは、万葉集の「集」は何かを集めたものという意味なので「時代」を集めたとはいえないからだ、という節になったようです。

 人の心を種として、との言葉は、日本の文化は植物イメージが多い好例。その反対は動物的で、遊牧や狩猟民族の西洋はそちらだそうです。 

仮名序の次の行は
「世の中にある人、事、業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。」
 業しげき、も茂ることで、植物ですね。
 「心に思ふこと、みるもの、聞くものにつけて」は見たものと、表現がストレートにむすびつくのではなく、そこに意識の介入をさせることこそ、古今の美学である、と歌い上げているのだそうです。
 この美学がいいと考えた時代と、人がいたということで、その大元ははるか中国の六朝の時代(随の前?)に「倚傍」(いぼう)傍らに寄る、寄り道って素敵!という詩の原理があったそうで、それをあとになってこの時代に日本が学んだのだそうです。

 見たものをストレートに表現するのは万葉集で、それを明治になって再評価したのが正岡子規。その万葉集の論理に強国をめざす日本が乗ったのだそうです。
 ふ~む、率直でいいと思っていた万葉集も、そういう見方もあったんですね。「敷島の大和心を」も、「しこの御楯と出でたつ我は」も万葉集の歌ですね。

 日本の文人の運命は中国のものとは違い(中国では勝れた文人は勝れた政治家)紀貫之は勅撰和歌集の編者で立派な業績を残したにもかかわらず、殿上人の最下位くらいにしか出世できず、そののち土佐の守として下っていき、土佐日記を著しました。
 先生がおっしゃるには内容は「ユーモアと皮肉に満ち満ちており、処遇に満足していたらとてもこんなものは書かなかっただろう」というものだそうです。
 読んでないけど、興味が湧きました。

3回目
 仮名の序がなかなか終わらないので、先生は序文を少しやって、和歌もやりましょうと方向転換、和歌も最初のを1首だけやりました。
 紀貫之とその仲間たちは、たいそうな決意をもってこの勅撰和歌集の編纂にあたったようです。中身の中心は「自然」と「人事」そして自然は春夏秋冬にわかれているのですが、歌は季節の移り変わりの順に並んでいるのだそうです。確かに1首目は、まだ年があらたまっていないのに、立春になってしまった日のことを、在原のなんとかさんが詠んだものです。
 旧暦にはそういうことがままあったようです。

 そしてまた貫之たちの心意気は、当時全盛を誇っていた藤原時平の関係者を栄えある1首目の席につかせなかったという所にも見えるようです。
 季節の移り変わりに、足りなかった場合は「詠み人知らず」にして自分たちが作ったらしいです。

 そして「自然」と並ぶ「人事」これはほとんど恋愛なのですが、これも、初恋から恋愛の終焉までを順番に並べてあるそうです。
 その中で、ないものは、恋愛待っただ中の時。大岡信さんは「2首だけしかない」と言っているそうです。恋を知り染めたときから別れまで、恋愛のドラマとなるのは、プロセスなんですね。

  序文の書き方は、古事記と似ているという話から、古事記の説明も受けました。古事記の初めは3柱の神がいて、というところから始まります。日本の神話は、世界の他の神話と違って、プロセスがなくて、いきなり3柱の神がいる。からはじまる。これは非常に日本的なものなんだそうです。
 神は下の世界が乱れていると怒って、その乱れを収めるために下界に下ります。乱れていると言うのは何かと言えば「草が言葉をしやべる」ということで、「言葉」とはすなわち権力なんだそうで、このあたり、ちょっと興味を覚えました。
 最近、古事記や日本書記がブームなんだそうです。先生は「昔のようにまた、よそへ攻めて行きたくなるのは困るけど」といいながらも、古事記の面白さを語ってくださいました。

4回目=2008年睦月=
 今日は、仮名序の説明と、2首目に載っている紀貫之の歌の解釈を聞きました。
 仮名序は、楽天主義で「中国には六義というのがあるけど、日本にだってあるぞ~。と説明しているのですが、その説明の引用が六義の倫理、道徳、政教主義(人の上に立つ人は、人々の心がわかるためには、自分の心を耕さなければならない。それが詩であり、歌である)から遠く離れて、チャチ!
 そうそう、六義の話の時に柳沢吉保の六義園の話題が出て、先生が「柳沢吉保は、お妾さんが非常に多く、しかも才女揃いだった。最近、その中の一人の「松陰日記」という本が岩波文庫で出たが、非常な名文です」と、おっしゃっていました。読んできたいですね。

 古今和歌集には1100くらいの歌が載っていますが、そのうち100首が選者集団の紀貫之の歌です。彼は歌集「貫之集」に、「やまとうたしれる人」と、自分のことを紹介しているほど、自分の歌に自信と思い入れが深かった人だそうです。 
貫之の歌は2番目に出て来ます。
 「春たちける日よめる
*袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん」

 中国の古い書物「礼記」に、
孟春之月
東風解凍
 というのがあるそうです。
 この歌は、ただ読み捨てれば何のことはない季節の移り変わりを詠んだようだが、人は時を把握することができ(推移の感覚)その中に悲哀を読み取ることができるのだ、とも。

 紀貫之は水の歌人と呼んでもよいようです。
 貫之の辞世の歌は
*手にむすぶ水に宿れる月かげの あるかなきかの世にこそありけれ

 75歳くらいで亡くなったそうです。

 そうそう、先生が礼記の説明をなさった時に、「皆さまのなかで気が付いている人がいるでしょうか?」と。
 岩波新書の初めのページの4隅に、春夏秋冬の風の神が風を巻き起こして描かれているんだそうです。
 「こんないやらしいつらい世の中でも生きてみようと思わせる、何かの変革を予見させるページです」と言われました。まだ見てないけど、どんな絵でしょうね。
 また、先生は紀貫之はドビュッシーの音楽を連想させる。強く訴えるものはないが、心に染み渡るところが似ている。とも言われました。う~ん、印象にない、ドビュッシー。


5回目 
 まず始めに、仮名序の中の、和歌の歴史の部分
「いにしへよりかく伝わるうちにも、、、」
 という所から。文武天皇の時から広まって、柿本人麻呂は、歌の聖として活躍。龍田川、吉野の桜、などの歌を良く読んだ。
 また、山辺赤人という人もいて、その他優れた人たちの歌を集めて、万葉集ができた。

 というような事が書いてありますが、人麻呂の頃はまだ吉野の桜は有名ではなく、時代錯誤と人麻呂本人のことについてもミスが重なった文章のようです。
 正岡子規は「歌よみに与ふる書」の中で、古今集、紀貫之について、ひどくけなしていますが、貫之は大真面目に、風呂敷を広げ、この部分では「君臣相和す」ことが政治ゲームの理想であり、この古今和歌集はそれを旗印にして歌を集めたと、宣言しています。

2009年12月23日
 さて、古今和歌集では一番最初に在原元方さんの
*年のうちに春は来にけりひととせを去年とはいはむ今年とやいはむ
 というので始まります。これについて、正岡子規が古今集のくだらない歌の代表としてこてんぱんにやっつけたため、明治,大正、昭和に渡って擁護する人もいませんでした。
 しかし、平和をめざす平成の世では、これは古今集の歌人たちの季節感として、12ヶ月と24節気の矛盾の中で、立春が来てから元旦がくる年もあり、その形式と実感の矛盾が、古今集の大きなテーマだったと読み解きます。
 彼らは歌を詠むことによって、自分たちの思想体系を後世に伝えようとしたわけです。

 では、古今集四季の歌の最後。
師走のみそかに人を待って、、、みつね
*わがまたぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人はおとづれもせず
年のはてに詠める、、、もとかた
*あたらまの年のをはりになるごとに雪もわが身も降りまさりつつ
寛平の御とき、、、読み人知らず
*雪ふりて年の暮れぬる時にこそつひにもみぢぬ松も見えけれ
年のはてに詠める、、、春道列樹
*昨日といひ今日と暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり
「歌奉れ」とおほせられて詠む、、、つらゆき
*ゆくとしのおしくもあるかなます鏡みる影さへにくれぬと思へば

 日本の古典って
「物事を兆候においてすでにその在ることを見いだす、という、微妙、繊細な日本人の美質の錬磨であり、それはすぐれた存在論哲学でもある」と、「日本文学と気象」の中で高橋和夫先生はおっしゃっています。
 昨日よりも、今日の太陽の光が力強く感じられるのは、東アジアの風土に育まれた日本人だから、でしょうか?





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